守山城 (陸奥国)
表示
守山城 (福島県) | |
---|---|
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 田村庄司氏 |
築城年 | 平安時代 |
主な城主 | 田村氏、三春田村氏、蒲生氏、本庄氏 |
廃城年 | 元和元年(1615年) |
遺構 | 土塁、石垣 |
指定文化財 | 郡山市指定史跡 |
位置 | 北緯37度19分51秒 東経140度24分50秒 / 北緯37.33083度 東経140.41389度座標: 北緯37度19分51秒 東経140度24分50秒 / 北緯37.33083度 東経140.41389度 |
地図 |
守山城(もりやまじょう)は、福島県郡山市田村町守山にあった日本の城(平山城)。郡山市指定史跡[1]。
概要
[編集]坂上田村麻呂が蝦夷追討の際にこの地に城を築いたと伝えられる。その後、坂上田村麻呂の子孫である田村庄司氏が本拠地として南北朝時代までこの地方を支配した。
関東公方の攻撃による没落後は、三春田村氏が三春城に居城を移すまで本城となった。その後、三春田村氏は、伊達氏の傘下に入る。
天正16年(1588年)伊達政宗は、白石宗実、片倉景綱らを守山城へ配して、蘆名氏を摺上原の戦いで破り、南奥羽をほぼ制圧した。
豊臣秀吉の奥州仕置により、伊達氏がこの地を去ると、代わって蒲生氏郷の支配下に入る。三春城から田丸直昌が配され改修が行われた[2]。氏郷の没後に豊臣秀吉の命で蒲生氏の支城の数が制約され、田村地方は三春城が廃されて守山城が残されることになった[3]。
慶長3年(1598年)に蒲生氏が宇都宮城へ移った後は、上杉景勝の支配下に入り、須田長義・本庄繁長・竹俣利綱と相次いで城代が変わった[4]慶長6年(1601年)に蒲生氏が復帰すると蒲生郷成が城代になったが、慶長14年(1609年)までに三春城を再興して同城に移った[3]。
現在
[編集]2000年(平成12年)7月、蒲生氏時代の野面積みの石垣などが発見された。
2016年(平成28年)12月、郡山市指定史跡に指定された[1][5]。
本丸跡は現在、武道と縁の深い八幡宮の一つ、城山八幡宮が建てられ、境内には力石や相撲の土俵などがある。
隣接する郡山市立守山小学校グラウンド脇の道路を挟んだ南側の敷地付近が二の丸跡で、蒲生氏時代の野面積みの石垣が残る。また、付近では礎石や、石組溝、カマド、井戸等の遺構が発見されている。
アクセス
[編集]- JR東日本水郡線磐城守山駅から徒歩11分、石井工務店本社付近に石垣、奥に本丸跡の神社あり
- JR東日本郡山駅2番バス乗り場より旧国道経由蓬田行または馬場行で「守山小学校」停留所下車、徒歩5分
- 東北自動車道郡山南ICまたは磐越自動車道郡山東ICから車で20分
脚注
[編集]- ^ a b 「文化財(東部・田村町)」郡山市公式HP
- ^ 垣内和孝の説明によれば、織豊系の大名が新領地に入った時にはまずは旧領主の本城に入って普請を行い、その後本格的な新城を作って本拠地にするケースがあり、守山城の改築と移転もその路線上にあったとする(垣内和孝「田村地域の本城と支城」『伊達政宗と南奥の戦国時代』P241-242)。
- ^ a b 垣内和孝「田村地域の本城と支城」『伊達政宗と南奥の戦国時代』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-02938-4(原論文は『郡山地方史研究』第43集(2013年)) P236-237・242
- ^ 垣内和孝「田村地域の本城と支城」『伊達政宗と南奥の戦国時代』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-02938-4(原論文は『郡山地方史研究』第43集(2013年)) P239。
- ^ 郡山市報道資料 郡山市指定史跡「守山城跡」の指定書交付式について 2016年(平成28年)12月20日 (PDF)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ■守山城跡と郡山の城館(ガイドブック) - 郡山市
- 守山城跡 - 文化遺産オンライン(文化庁)